<日本橋弁松総本店>樋口純一さんの「日本橋絵葉書びっくり展覧会」(第5回)

「日本橋絵葉書びっくり展覧会」へようこそ。第5回目となる本日も開会のお時間となりました。ご用とお急ぎでない方はどうぞごゆっくり覗いていってください。

さて、今回はまさにヴィジュアル重視のセレクトにいたしました。今では考えられないクールで熱気に満ちた日本橋の風景の数々をご覧いただきます。まずは前編をお楽しみください。お代は、東都のれん会加盟店でのお買い物で。
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前回ご覧いただきました、一代前の木製の日本橋。今回ご紹介いたします絵葉書も、全てまだその一代前の日本橋の時の風景です。

これはヨーロッパかどこかでしょうか? 「祝凱旋」と書かれたこの巨大建造物は何なのでしょうか? 橋はどこにあるのでしょうか?

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少しアングルを変えてみると、この建造物が日本橋のたもとに設置されているのがわかります。左下に「日本橋凱旋門」と書いてあります。これは明治38年10月に日露戦争の凱旋記念に造られたものなのです。高さ約14mのこの凱旋門は、実ははりぼてで、わずか7日ほどで完成しました。総工費は当時の2,000円なので、今の価格に換算すると4,000万円くらいでしょうか。「祝凱旋」の文字の上部には旧日本橋区の徽章と月桂樹が、文字の下部には桜の意匠が飾られています。

凱旋門は日本橋だけでなく、京橋、新橋、上野、浅草、万世橋などの都内各所はもちろん、全国にも造られ、それぞれ独特の形状をしていました。はりぼて製の凱旋門は祝祭後に取り壊されてしまいましたが、石造りと煉瓦作りの凱旋門が現在でも鹿児島県と静岡県に残っています。

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反対側から見ると日本橋もバッチリです。凱旋門は橋の南詰に作られました。現在、交番や船着場がある側です。アーチの向こうには「胃活」の紳士の看板が見えます。

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こちらの一枚には、右側に「花電車」の姿が。失礼ながら、そこの貴方。今、「花電車」と聞いて、よこしまなことを想像いたしませんでしたか? 貴方が想像した「花電車」はこの「花電車」が語源なのです。路面電車を装飾した「花電車」はお客を乗せないで走るだけでした。「お客を乗せない=行為をしない」が転じて、見せるだけの風俗芸を「花電車」と呼ぶようになったのです。

この絵葉書の制作者が、中央やや左の人物の背中にタイトルを書き込んだのにはセンスを感じます。また、この一枚が特筆すべきなのは上部にフランス語の私信が書いてある点です。絵葉書の多くは当時来日した外国人が母国に送り、それが近年、海外の古絵葉書市場に出回って日本に戻って来ることが多いのです。関東大震災や戦災を免れて数多の絵葉書が現存しているのにはそのような理由もあるのです。ちなみにフランス語の文章は「通りは兵士たちへの祝賀ムードでいっぱい」というような内容のようです。
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先ほどの「花電車」がちょうど凱旋門を通過中です。この装飾の魂(スピリット)は、デコトラや街宣車に受け継がれているような気がしてなりません。

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街中も国旗や高張球灯、幔幕で飾られて一大イベントだったのがわかります。右側にはお馴染みの電信局が見えます。

日露戦争の前の日清戦争の際にも、実は凱旋門が建造されていました。日本橋にはありませんでしたが、日比谷に巨大な連続アーチのアーケードのような凱旋門が造られました。外面を杉の葉で覆われていて、そのような仕様の門は「緑門」と呼ばれていました。日露戦争の際にその仕様が採用されなかったのは、時間経過と共に杉の葉が枯れて行き、「緑門」が緑でなくなってしまったからということのようです。

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連合艦隊の凱旋なので、日章旗だけでなく英国旗など同盟国の国旗もあちこちに飾られました。

 

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連合艦隊司令 東郷平八郎大将の花馬車が凱旋門を通過します。パレードは最高潮のようです。そして警備も厳重です。

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花馬車、無事日本橋を通過いたしました。

後部座席にちらっと東郷大将のお姿が確認できます。馬は白馬で、鉄道馬車とはレベルが違うのが感じられます。

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夜はもちろんライトアップされます。100年以上前なのにこのパワーには圧倒されます。

もし現代にこの凱旋門が残っていたら、観光名所の一つになっていたのは間違いありません。

日清・日露戦争は、徴兵制度ができてから初めての外国との戦争でした。凱旋門はその戦勝を演出する巨大な舞台装置であり、細工見世物でもありました。はりぼての凱旋門をくぐるとき、人々は西欧列強の仲間入りをした「大日本帝国」という国家とその「国民」であることを強く意識したのです。

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こちらは、凱旋門の輪郭部分にラメ入りの絵の具を点々と塗っており、プレミア絵葉書となっております。日本橋関係の絵葉書では、この凱旋門だけに施されている仕様です。絵葉書屋も稼ぎ時だったことが想像されます。

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そして、この一枚はまだ「三越呉服店」だったころの三越の凱旋門です。

店舗の前面に被せるように建築されています。宣伝効果抜群だったと思われます。うっかり門をくぐってしまうと、そこは三越の店内なのです。

この絵葉書は、右上に切手と記念印が押されています。切手は3銭です。記念印の中央の錨と蹄鉄のマークは、先ほどの日本橋凱旋門にも施されていた旧日本橋区の徽章です。消印は、明治39年5月3日となっています。この日は、靖国神社で戦没者合祀の臨時大祭が行われました。そのときの記念印のようです。古絵葉書は、このように絵葉書の風景以外にも、私信や切手、記念印から様々なことが読み取れるのです。

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側面に、「海軍萬萬歳」という文字が確認できます。この凱旋門は海軍パレードの際に造られ、陸軍パレードの際には改造され、色も塗り替えられてフォームチェンジしたそうです。それにしても、旗を盛り過ぎな気がいたします。

今回は凱旋門特集でした。和洋の建築物と祝祭という独特のムードの中の異空間を堪能していただけたのではないでしょうか。後編も今では考えられない奇観をご用意しております。

今では刻の彼方に消えた日本橋の風景の数々でございました。

それでは、今宵はこれにて閉幕とさせていただきます。

樋口純一(日本橋 弁松総本店 八代目)
history
明治38年10月に日露戦争の祝捷凱旋記念に建てられた日本橋凱旋門は、にわか造りのはりぼてのものでしたが、威容を誇る堂々としたものでした。日本は戦争に勝利しましたが、財政的にはもはや戦争を継続することはできない状況でした。講和交渉に臨んだ日本は、講和の条件で難航し、アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋で賠償金を放棄することで条約を締結しました。これを知った民衆の一部が九月五日、日比谷焼き打ち事件を起こしたことはよく知られています。
騒動の余韻が覚めない十月十一日に英国東洋艦隊が日露戦争の勝利と第二回日英協約の成立を祝するために日本を訪れました。新橋駅前には国旗、球灯、幔幕など装飾をほどこして歓迎の意をあらわしていました。ところが、講和条約の全権を勤めた小村寿太郎が帰国したのは十月十六日、小村全権の列車が新橋に近づくころには、芝口、新橋、銀座通りはもちろん、麹町、京橋、日本橋、神田その他の区でも一斉に装飾物が取り払われました。第二の騒動を警戒したためでした。
その後凱旋将兵の歓迎のため日本橋をはじめ新橋、京橋、万世橋などに凱旋門が急きょ建てられ、戦勝気分を盛り上げました。
日本橋の凱旋門に英国国旗が掲げられているのは、英国艦隊歓迎のためでした。
野口孝一(近代都市史研究者、中央区文化財保護審議会委員)

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