<大江戸広辞苑>【や行】

【や】屋台がダイニングルーム
 江戸の町は独身者が多い上に、妻がいても共稼ぎがほとんどだったので、外食グルメが発達していました。天秤棒をかついで売り歩く振り売りは早くから登場し、その後、露店が登場しました。
なかでも、うなぎ、てんぷら、握りずしは、屋台から生まれて江戸を代表する食べ物になりました。ちなみに、うなぎを蒲焼きで食べるようになったのは元禄時代(1688~1703)以降から。てんぷらは天明年間(1781~89)頃に串揚げスタイルでお目見えし、握りずしは文化年間(1804~18)頃に江戸の町に登場しました。
そのほかの屋台も紹介しましょう。まずは主食系として、稲荷ずし、茶飯、麦飯などのご飯類の屋台。けんちん汁などの汁ものを一緒に売ったり、とろろなどのトッピングメニューも揃えていました。
おかず屋台としては、豆腐やこんにゃく、芋などの味噌田楽や煮込みおでん、焼きイカ、卵焼きなどなど。デザート屋台もバラエティ豊かで、飴、団子、大福餅、焼き芋、甘酒、汁粉などのほか、たとえば夏には白玉やところてん、水羊羹、スイカなどの季節メニューの屋台も出ました。ご飯だけ家で炊いて、おかずは「煮売屋」「菜屋」などと呼ばれる惣菜店で買う人も多くいました。
「江戸の諸所にこれがあり、刻みするめ、こんにゃく、くわい、れんこん、ごぼう、
刻みごぼうの類を醤油で煮染め、丼鉢に盛り、見世棚に並べている」
上記は幕末頃の史料から。なかなか、おいしそうですね。なお、本格的に店を構える飲食店・居酒屋ができるのは、18世紀後半からです。

【ゆ】遊郭大繁盛
 庶民も武士も単身赴任が多かった江戸では、町の発展に伴って、遊女屋が増えていきました。そこで遊女屋が集まって幕府に公認の遊郭設置を申し入れ、許可されたのが元和3年(1617)。場所は現在の人形町あたりで、当時は埋立地で葭が茂っていたため「葭原」と名付けられましたが、やがて「吉原」に改められました。
ところが、市街地が拡大して吉原に迫ると、幕府は遊郭の移転を計画。まもなく起きた明暦の大火が契機となって、浅草寺裏に「新吉原」が開かれました。江戸話によく出てくる「吉原」は、まずこちらの方です。
江戸後期の天保年間の史料によると、新吉原の遊女屋は約260軒。遊女は3600人、予備隊である「かむろ」と呼ばれる少女は700人いました。遊女のランクはまさしくピンからキリまでで、大名や大商人の相手となる太夫(たゆう)を頂点に、格子(こうし)、局(つぼね)、端女郎(はしじょろう)などの階級があり、当然のことながら値段も遊び方も異なっていました。吉原が一つの社交クラブのようになっていったのも、この頃からです。
また、新吉原以外にも江戸には80カ所ともそれ以上ともいわれる幕府非公認の遊郭があり、岡場所と呼ばれていました。なかでも品川の遊郭は規模が大きく、板橋や千住なども盛んだったといいます。深川はいきな芸者が評判を呼びました。なお、こうした非公認遊郭にいる女性は遊女とは言われず、飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれていたそうです。

【よ】宵越しの金は持たぬ(富くじの話)
 江戸っ子には、「宵越しの金はもたない」という気風があったようです。男性社会ならではの豪快な思想とも考えられますし、お金を貯めて大きな家に移ったところで、火事で焼ければ再びボロ長屋に舞い戻ってしまう火災多発都市ならではの諦観もあったことでしょう。いや、それ以上に、もともと蓄財するお金も、その気もない庶民にとっては、貧乏をしゃれにしてしまう言葉だったのかもしれません。
とはいえ、あって困らないのが、お金。一攫千金をねらう「富くじ」に人気が集まりました。
富くじとは、現代の宝くじのようなもの。社寺の修復費用をまかなうために考え出されたもので、谷中の感応寺(天保4年以後、天王寺の名に変更)、湯島天神、目黒不動の富くじが有名でした。富くじの販売所は町の各所にあり、抽選は社寺の広間に据えられた箱に番号を書いた木札を入れ、小さな穴から錐で突き刺して行われたといいますから、まずまず公正だったといえるでしょう。
そして、1等が当たると1000両か500両、2等なら100両か五十両がもらえました。これがどのくらいの金額かというと……たとえば、1両を庶民が一番よく使う1文銭にかえると、4000枚から1万枚に相当しました。(4000~1万枚と幅があるのは、貨幣の改鋳による金の含有量などによって相場が変わった上、幕末になると金貨が海外との貿易で流出し変動が激しくなったためです。)屋台で食べる二八蕎麦が16文程度なのですから、1等賞金は目もくらむような金額です。一夜にして億万長者! 富くじは、まさしく江戸っ子の夢のドリームジャンボ宝くじでした。

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