<大江戸広辞苑>【ら行】

【ら】ラクダ大人気(盛り場と見世物)
 火事の多かった江戸では、延焼を防ぐために「広小路」という防火帯スペースが各地に設けられていましたが、この広小路は、のちに盛り場となって繁栄することになりました。
なかでも両国橋の東西にある広小路は、見世物小屋や芝居小屋が立ち並び、川沿いには水茶屋が軒を連ね、橋の上には物売りや露店がひしめきあう江戸最大の盛り場に生長していきました。
このアミューズメントパークで江戸っ子の人気をさらったのが、外国からやって来た動物の興行です。
まず人々に衝撃を与えたのが、ラクダ。文政4年(1821)にオランダ船に乗って長崎に上陸したラクダは、各地で興行をしながら3年かけて江戸へ到着しました。「小便は妙薬で、毛は魔除けになる」といった口上とともに始まる興行は大当たり。大きくてノロマなものを「駱駝(らくだ)」と呼んで流行語にするほど、江戸っ子はラクダに熱狂したのです。
続いてお目見えしたのが、象。象は慶長7年(1602)に家康に献上するために最初の日本上陸を果たしていますが、庶民向けの興行が打たれたのは幕末の文久3年(1863)年のこと。「象を見ると福が来る」とのウワサもたち、見物人が殺到して、両国橋周辺は身動きできないほどだったといいます。
そのほか、両国で見世物になった動物は、ヒョウの子、アシカ、クジラ、クジャクなど。珍獣ではありませんが、天敵であるはずの猫とネズミが一緒に行う曲芸なども人気を集めました。
人々の歓声がこだまする両国橋西詰のようすは、江戸東京博物館の館内に模型で再現されています。

【り】リサイクル都市
 江戸のリサイクルとは、徹底的に使いまわすことでした。
茶碗がかけたり、鍋底に穴があけば、直し屋さんへ。着物は古着が当たり前。新調したら仕立てなおして着まわし、つぎはぎしながらさらに着続け、それも無理となったら小物にリメイクするか、おむつや雑巾に。下駄などは歯が減ったら歯だけ入れ替えて使い、どうしようもなく壊れたら薪にして燃やし、その灰は畑の肥料向けに売りました。
もちろん、し尿は貴重な資源で、近郊の農家が買い取りに来たので、長屋の大家さんにとっては家賃よりも確かな収入になったほどです。ともかくリサイクルは、江戸の一つの大きな産業でした。
なかでもおもしろいのは、献残屋(けんざんや)という武家向けのリサイクルショップです。江戸では諸大名から将軍に献上する品をはじめ、武家社会ならではの実にたくさんの献上品・贈答品がやりとりされていました。献残屋は、そうした品物のうち不要品を引き取り、再生して売るのが仕事でした。扱った品物のうち多かったのは食品で、あわびのし・干し貝・からすみ・うになどの高級珍味は何度でも再生。献上品を載せる檜台や桐箱なども飾りを変えて、新品同様に生まれ変わらせました。
江戸の文書に「江戸城辺りに数多(あまた)これあり」と記されている献残屋。現代のブランドリサイクルショップの先駆けといえるかもしれません。

【る】流罪と死刑(奉行所とお裁き)
 江戸に町奉行所ができたのは、寛永8年(1631)年のこと。南町奉行と北町奉行が置かれましたが、これは所轄地域が南北二つに分かれていたのではなく、訴訟を受け付ける月番と、前月に受け付けた訴訟を処理する非番を1ヵ月交代で行っていたのです。ちなみに、犯罪の刑罰に関する規定が成文化されたのは享保5年(1720)、将軍吉宗の命による「公事御定書(くじおさだめがき)」で、それまでの刑罰は外圧や私情で左右されることも多かったといいます。
さて、江戸町奉行が扱う事件のうち、大事件はトップである町奉行が調べに当たりましたが、町奉行といえども判決を下せるのは中追放までで、重追放以上の言い渡しの際には老中の指示を仰ぎ、遠島や死罪の場合は将軍の裁可が必要でした。
遠島、いわゆる島流しは、過失致死や僧侶の女犯などに課せられた刑で、江戸からは伊豆七島へ送るのが一般的でした。また、死刑には7種類がありました。同じ死刑でも、主人殺しはノコギリ挽き、親殺しははりつけ、放火は火罪、武士は切腹というように処刑方法が違ったのです。特に、おいはぎや主人の妻との密通、兄姉殺しなどの死刑は獄門といい、斬首の上、さらし首の見せしめ刑が加わりました。「ぬ」の項でご紹介した大泥棒たちも、この刑に処せられています。
なお、10両以上の盗みや人妻との密通も死刑。総じて、主人や親などとの主従関係を乱す者と盗犯への罪が重いのが江戸時代のお裁きの特徴です。

【れ】礼(れい)を教えた寺子屋
 幕末の頃、江戸では8割以上、全国でも5割の人が、少なくとも「ひらがな」は読めて、書けたと言われています。多分、世界一の識字率でしょう。その高い教養を育てたのが、寺子屋教育でした。もっとも寺子屋と呼んだのは上方で、江戸では手習指南所、幼童筆学所などと言うことが多かったようです。
先生は幕臣や諸藩の藩士や浪人のほか医者、書家、僧侶、町人などで、子どもは6~7歳になると近くの寺子屋へ通い始め、いわゆる「読み、書き、そろばん」を身につけました。
とはいっても、入退学時期も自由なら、登下校時間も自由。午後になると、親の仕事の手伝いや他の習い事のために2~3割ほど生徒数が減ったといいます。ちなみに、授業料も一定ではなく、親の経済状態によって決められていました。
指導内容も、子どもによって違っていました。先生は、その子の親の職業によってそろばんに力を入れたり、専門知識を教えたりで、たとえば八百屋の子どもにはまず野菜の名前を、大工の子どもには最初に建築用語を教えるといった具合です。もちろん、教科書も一人一人に合ったものを与えました。しかし、どんな子どもにも共通して教えたのは礼儀作法と、礼をつくす人になれという人間としてのあり方だったそうです。
字が読めるというハードと、礼というソフト。江戸時代の人々が明治の大変革に柔軟に対応できたのも、その後、日本が短期間のうちに近代化を進められたのも、江戸時代に社会の底辺にまで教育が行き渡っていたからだといえるかもしれません。

【ろ】66%は江戸時代
 江戸幕府ができて2003年で、ちょうど400年。ちょっとした江戸ブームで、江戸に関連する書籍の出版やイベントも多いのですが、「江戸っ子は○○でした」という話に単純に感心するのはちょっと待って!
例をあげると、よく「江戸は町人文化が花開いて……」「江戸っ子は屋台ですしを食べて……」といった話がされますが、元禄時代の江戸っ子は「町人文化」にも「すし」にも無縁。町人文化が花開いたのは、江戸時代の終わり70年間くらいなのですが、そのイメージが強烈なので、江戸時代がずっと「やじきた道中」のような庶民のにぎやかな声に包まれていた錯覚に陥りやすいのです。
江戸時代は1603年から1867年までの、265年間もあります。それがどのくらい長いかというと……。たとえば、開府から現在までに流れた400年の時間のうち、66%が江戸時代だと言うと、ちょっとびっくりしませんか? 開府400年の3分の2は、江戸時代なのです。
明治・大正・昭和に平成15年までを足しても、135年。江戸時代が長いというより、明治維新から現代までが、短時間にさまざまなことが起こった激動の時代だったと言った方がよいのかもしれませんが。

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