大旦那のちょっといい話<いせ辰>【千代紙に描かれた「仙台駄菓子」】
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 深い青緑色のバックの上に描かれた、60余種類の駄菓子。その上には『仙台 駄菓子づくし 石橋幸作筆」の文字。仙台駄菓子って何? 石橋幸作って誰?
それにしても、一つひとつのお菓子の形や色の美しさ、面白さには思わず見入ってしまいます。名前もユニークで、聞いたことがないものばかり。
べろべろ、筆あめ、カステーラ羊羹、白墨、スワスワ、貝パッカ、鬼ごろし、ラッパぱん、ぶどうにぎり……。
江戸の昔から仙台では、おこしを中心とした駄菓子が盛んに作られていました。これは伊達藩が、参勤交代時の携帯食などに用いるものとして、もち米や粟(あわ)、とうもろこしなどで作っていた糒(ほしいい)を家臣や町民にも払い下げることがあり、その糒を使って、人々がおこしを作ったり、きなこやゴマ、クルミなどを合わせてねじり菓子や餅菓子を作ったりしたものが始まりと言われています。
ところがその後、駄菓子は、仙台に限らず日本各地でその姿を消していきます。一つには戦中・戦後の、砂糖をはじめとする食料物資の統制が影響したためと思われますが、なによりも戦後、西洋の菓子がどっと入ってきて、人々の興味がそちらに移っていったことが、駄菓子が衰退していった大きな原因と思われます。
そんな風潮に心を痛め、昭和30年代から動き始めたのが当時、仙台で飴屋を営んでいた石橋屋の先代主人、石橋幸作氏でした。石橋氏は東北地方をはじめ全国各地をめぐって駄菓子を発掘、その地の人に話を聞き、スケッチをとって、駄菓子づくりの技法とその背景などを調査していきました。そして自分の店で作り始めると同時に、本を著し、テレビなどにも出演して駄菓子の魅力を広めていきました。また、駄菓子が絶えてしまった地域に呼ばれて、作り方を教え、復活させるといった活動もしていきました。
 いせ辰の千代紙『仙台 駄菓子尽くし 石橋幸作筆』の図柄は、まさにこの石橋氏のスケッチそのもの。仙台のデパートの催事にいせ辰が出店した際、いせ辰の先代と石橋氏が出会い、石橋氏のスケッチを千代紙にすることが決まったのだそうです。
いせ辰の千代紙は、絵師、彫り師、擦り師がそれぞれ高度な技を駆使して仕上げていく手作りの粋を感じさせるものですが、「仙台駄菓子」のほのぼのと素朴な姿形は、まさに千代紙にぴったり。多くの人が、いせ辰の技と、石橋氏の絵、そして魅力あふれる駄菓子の色形にひかれて買い求め、版を重ねています。
石橋屋の本店は仙台市営地下鉄の河原町駅から徒歩2分の舟丁という江戸情緒を感じさせる街にあります。建物は仙台景観重要建築指定建物にも指定されている趣あふれるたたずまい。いせ辰の千代紙を片手に、仙台の旅に出かけるのも一興かもしれません。
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左から、輪南京(絵では「南京とう」)、ささらあめ、うさぎ玉。
輪南京は、餅粉を練り、黄粉や黒砂糖を混ぜ入れて白すり蜜をかけた菓子、うさぎ玉は餡に米飴、黒砂糖、餅粉などを入れて煉り、蜜をまぶした菓子。

 

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左から、ダルマコ飴、ぶどうにぎり、うさぎらくがん。
ぶどうにぎりは、餅をクッキー風味に焼いて細かく切り、白・黒砂糖、米飴、麦芽水飴を合わせて丸めたおこし風の菓子。なお、ダルマの顔が黒いのは、達磨がもともと天竺(インド)の王子として生まれ、菩薩になったからだろうか。菓子一つ一つの背景を考えていくと、楽しみが広がる。

 

 

 

文:太田美代

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