<白木屋傳兵衛>中村梅吉さんの「いい話」【ウチの祖先と富くじと】

ウチの祖先、初代藤兵衛が店を持ったのは天保元年(1830)と伝えられている。箒(ほうき)の専業になったのはここ10年ほどで、その前は荒物屋。在庫品の種類は1000を超えていた。
大正期には富士アイスさんの重役さんが、アメリカで見たモップをウチに作らせた。最初は三角、後T字型に。日本にモップが現れた初期だ。また、敗戦直後には夏はすだれを作り、新宿の尾津親分の闇市へ納めていた。
ところで、菩提寺の過去帳から、初代の父は水売りだったことがわかっている。最初は地借り、店借りだったのだろうが、なぜ水売りのような零細な商人が店を持てたのか、答えを探し続けていた。ウチ関係の古文書が出て来るわけはないし、思案投げ首だったのだが、最近亡くなった鈴木理生さんの図書で町木戸を詳しく知った。木戸番は株で売買されており、収入補填のために荒物屋などの兼業が許されていた(所や季節によっては、焼き芋屋、氷屋、炭屋などの兼業があった)。
ありがたいことに、江戸東京博物館の平常展示5階の長屋は、京橋柳町(現京橋3丁目)の図面を基としている。それを見ると、ウチの近所にかつて橋があったことがわかる。埋め立て時の名前は炭谷橋(炭町と向こう岸の水谷町を繋ぐ意、江戸期には中橋とも)。橋のたもとには必ず町木戸と木戸番小屋がある。
そして、ここからは私の妄想だが、水屋であった初代の父は毎日のように木戸にやって来て、やがて町の有力者と知り合いになり、木戸番のアキが出て、荒物屋を兼業しながら、お勤めを果たした……。
ただ、この楽しい想像にはいくつもの難点がある。なかでも重要なのは、木戸番になるための金を、どう工面したのかということだ。
落語に「水屋の富」なる噺がある。とある水売りが富くじ(宝くじ)を買ったところ千両が当たり、その金を長屋の床下に隠したが、泥棒が心配で毎晩強盗に首を絞められる夢にうなされ、朝になると長い竹竿で突いてその感触で安心するという毎日を送っていた。ところが、隣に住む「ごろつき」が男の秘密に気付き、留守の間に金を盗んでトンズラ。水屋、帰って来てガッカリすると同時に「これで安心して寝られる」というのが噺のオチだ。(千両は落語のウソで、当たりくじの最高は3百両程)
ちなみに、江戸の「三大富」といえば、湯島天神、谷中感応寺、目黒不動と言われており、この3カ所に両国回向院、浅草金龍山の2つを加えた5カ所が、札料金2朱~2朱5分(0.125~0.156両)、最高賞金100両で、毎月5000札の富くじを発行していた。ところが、日本橋室町の福徳稲荷は、年4回と回数は少ないが、札料金銀3匆2分(0.053両)、最高賞金300両で、35000枚の富くじを発行していた。札料対賞金の最大倍率は福徳稲荷がダントツの1位(5,625倍)、最高賞金も1位なのである*。
落語「水屋の富」のように、水屋だったご先祖様は福徳稲荷で富くじを買い、大当たりを引いていたのかも……?!
蛇足だが、私は、くじと名の付くものは1枚も買ったことが無い。
中村梅吉(なかむら うめきち)
白木屋中村伝兵衛商店6代目店主。昭和4年(1929)、東京市京橋区宝町3-4(現:中央区京橋3-9-8)に白木屋箒店(現、白木屋中村伝兵衛商店)の長男として生まれる。
区立京橋国民学校(小学校)、東京府立第3中学(現両国高校)を経て、東京外事専門学校(現東京外語大)の蒙古科に入学。蒙古語、中国語、ロシヤ語を習得。昭和37年(1962)から平成15年(2003)まで、6代目店主として家業に勤しむ。
昭和55年(1980)から中央区歴史講座で川崎房五郎氏に師事し、江戸学を開始。隠居後、中央区の文化サポーターや江戸東京博物館ボランティアとして、年間30回以上、講演や街歩きの案内を務めた。また、東京大空襲の被災者としての証言など、様々な形で江戸—東京の歴史を伝える活動にも関わり続けた。2020年逝去。

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