<白木屋傳兵衛>中村梅吉さんの「いい話」【第5回:時の鐘】
久しぶりに日本橋小伝馬町の十思公園へ行った。お世辞にも良いとは言えないデザインのコンクリート2階建ての鐘楼に、「時の鐘」がぶら下がっている。
宝永5年(1711)に改鋳されたこの鐘は、何度もの火災をくぐり抜けたが、関東大震災で屋舎を失し、最後は台座の崩れた小山の上に座っていたそうだ。区画整理で邪魔物になって東京府の公園に移されることになり、近所の常盤小学校の児童のひく花山車に乗って400m移動し、ここに収まった。昭和5年(1930)のことである。その鐘が、最大の危機を迎えたのは、太平洋戦争開戦2年目の昭和18年(1943)のこと。もともと戦略物資の乏しい日本が戦争を始めたものだから、何から何までが不足。そこで軍部、政府は、民間の財産に目をつけた。「金属回収」である。
ダイヤモンドから家庭の鍋、釜までが供出されたが、なかでも狙われたのが寺の鐘である。これで日本中のほとんどの名鐘が外された。また、皇居前の「楠木正成」や「和気清麻呂」などは天皇に忠節を誓っているとのことで例外となったが、全国に数々ある銅像も対象となった。
こうした供出の手本を示す意味で先頭を切ったのが、靖国神社の青銅の大鳥居。そして、「靖国神社でさえ」が合言葉になり、上野の西郷さんも、渋谷のハチ公も回収された。日本橋の麒麟の像や、三越のライオンも外された。
こうした回収は「行き当たりばったり」で、特段、回収リストもなく、つまり目についた順に取っていったらしい。さて、ここで江戸時代から町に伝わる「時の鐘」を守ろうと立ち上がった英雄が現れる。伝馬町の町会長K氏である。K氏は鐘楼の2階を幕で覆い、鐘を隠すという、誠に簡単で大胆な方法をとった。
あのご時世に、その行為がいかに危険な行為であるか、今の方たちには解らないかもしれない。なにしろ、ちょっと屋外に電灯が洩れただけで「アメリカのスパイ」呼ばわりされる世の中なのだ。誰かが、その行為を告げ口すれば……。だが、そのような下劣な人間は伝馬町にはいなかった。伝馬町の民度は高かったのである。かくして、「時の鐘」は回収をまぬがれた。私はK氏を青年期から知っており、年中会っていた。しかし、この話はK氏の没後に『江戸最初の時の鐘物語』(東京経済大学)を読んで初めて知った。だから、直接話を聞いていない。私は地団太を踏んだ。ちなみに、回収された金属類の半分以上は、溶解はおろか、輸送もされていなかったようだ。日本橋のライオンも麒麟も放り出されていただけで、戦後、元に復した。
「時の鐘 江戸を寝せたり起こしたり」 江戸川柳