【ちくま味噌】
◆永代橋のたもとで◆
当店は、元禄元年(1688)に永代橋のたもとで創業。以来、三百三十余年、この場所で商いを続けて参りました。西郷隆盛、勝海舟といった方々との親しいお付き合いも、この場所で育まれたものです。本日は、そんな当店の昔話の中から、永代橋にまつわるお話をいたしましょう。
最も有名な話といえば、赤穂四十七士が吉良邸討ち入りの後、当店に立ち寄ったというエピソードでしょうか。これは、初代が赤穂浪士の一人、大高源吾と俳句を通じた友人であったことに加え、この日がたまたま店の棟上げ式で、早朝から店の者が揃っていたため迎え入れることができたというのですが、偶然にしてはできすぎのような気もいたします。
ともあれ、酒粥を飲み、乱れた髪や身なりを整えた四十七士は、うちを出て永代橋を渡り、泉岳寺へと向かったのですが、立ち去る折に大高源吾は当店の看板を書き置いていきました。この看板が、その後、大変な話題になったのは言うまでもありません。当店はしばらく、江戸の名所の一つとなって大層賑わったと伝わっています。
もう一つ、永代橋といえば、文化4年の富岡八幡宮大祭の日に落橋し、500人とも2000人ともいわれる多数の死者を出した事故があったのですが、ご存じでしたでしょうか。
事故は一橋家が船でお参りすることになったため、船が通過するまで橋の通行を一時遮断、その通行止めが解かれた途端、橋のたもとにいた人々が一気に橋に押し寄せ、その重さに耐えかねて橋が落ちたのです。この出来事もまた、「忠臣蔵」と同じように、やがて歌舞伎や落語の題材になりました。
江戸時代の永代橋は、もちろん木製の橋。現在の場所よりも150mほど上流にありました。
最も有名な話といえば、赤穂四十七士が吉良邸討ち入りの後、当店に立ち寄ったというエピソードでしょうか。これは、初代が赤穂浪士の一人、大高源吾と俳句を通じた友人であったことに加え、この日がたまたま店の棟上げ式で、早朝から店の者が揃っていたため迎え入れることができたというのですが、偶然にしてはできすぎのような気もいたします。
ともあれ、酒粥を飲み、乱れた髪や身なりを整えた四十七士は、うちを出て永代橋を渡り、泉岳寺へと向かったのですが、立ち去る折に大高源吾は当店の看板を書き置いていきました。この看板が、その後、大変な話題になったのは言うまでもありません。当店はしばらく、江戸の名所の一つとなって大層賑わったと伝わっています。
もう一つ、永代橋といえば、文化4年の富岡八幡宮大祭の日に落橋し、500人とも2000人ともいわれる多数の死者を出した事故があったのですが、ご存じでしたでしょうか。
事故は一橋家が船でお参りすることになったため、船が通過するまで橋の通行を一時遮断、その通行止めが解かれた途端、橋のたもとにいた人々が一気に橋に押し寄せ、その重さに耐えかねて橋が落ちたのです。この出来事もまた、「忠臣蔵」と同じように、やがて歌舞伎や落語の題材になりました。
江戸時代の永代橋は、もちろん木製の橋。現在の場所よりも150mほど上流にありました。
ちくま味噌
●東京都江東区佐賀1丁目1-15 ちくまビル
●03(3641)3310
●東京都江東区佐賀1丁目1-15 ちくまビル
●03(3641)3310
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