<大江戸広辞苑>【な行】

【な】長屋の暮らし
 最盛期の江戸の町民、約50万人のうち、借家暮らしは40万人、その大部分が長屋の住人だったといいます。つまり、庶民の大半は長屋に暮らしていました。
長屋は表通りの裏手、路地の中にあり、1軒の大きさは、最低にして平均的な基準が間口1間半(約2・7m)、奥行き2間(約3・6m)。入ってすぐは土間で、片隅にかまどがあり、一段上がって板の間。つまり、窓も押し入れもない1Kが基本。1軒あたり、平均3・2人が住んでいたといいます。寝るのが精一杯の極小スペースではありますが、水道の井戸やトイレ、ごみため、物干し場などは共同ですし、風呂は銭湯に、ご飯は外食すればいいのですから、まさしく寝起きできる空間があればよかったのです。
それに、店子(たなこ)と呼ばれる裏店の住人には住民税も所得税も課せられない上に、長屋は真面目に働けば2~3日で稼げる程度の低家賃。おまけに「大家は親、店子は子ども」同然で、冠婚葬祭の世話から職の斡旋、トラブルの後始末まで、大家がなにかと世話をしてくれました。ノンキに暮らすには、これほど気楽なところもなかったのです。
勢い、だらだらと過ごし、食べるのに困ってからやっと働きに出かける、落語の「八っつぁん、熊さん」のような人が多かったのも事実。大志を抱いて地方から来た人たちは、あきれて数ヵ月で出ていくことも多かったようです。
「鰹一本に長屋のさわぎ也」 長屋暮らしをしていた当時の、小林一茶の句です。

【に】日本一のいい男(歌舞伎の話)
 歌舞伎の語源は、「かぶき者」から。そして、かぶき者とは、傾く(かぶく)という動詞から来た言葉で、常軌をいっした姿や行動をする戦国時代に始まった風俗です。歌舞伎の創始者といわれる出雲阿国(いずものおくに)は、この「かぶき者」の風俗を興行にうつして、喝采をあびたのです。
というわけで、歌舞伎の最初は女性によるものでしたが、幕府の統制により若衆歌舞伎へ転じ、さらに男性のみが演じる野郎歌舞伎となって、定着しました。江戸における歌舞伎興行のはじまりは、寛永1年(1624)と伝えられています。
興行場所は、寛永12年頃に今の人形町に決まりましたが、後に堺町、葺屋町に移動し、一方で木挽町にも芝居町ができました。しかし、移転はなおも続いて天保12年(1841)、やっと浅草に落ち着きました。
さて、現在も続く、江戸歌舞伎の様式、荒事(あらごと)は元禄時代、初代市川團十郎によって始められました。力強い立ち回りや、隈取(くまどり)などの化粧法も、ここに始まり、代々の市川團十郎によって洗練を加えられていきました。『助六』は、それを代表する演目です。
なお、「昔の歌舞伎」というと、演目の時代や浮世絵のイメージにひきずられて、江戸時代だけを考えてしまいがちですが、九代目團十郎、5代目菊五郎、初代左團次の、いわゆる「團菊左」ブームが巻き起こったのは、明治時代。それぞれの時代にスターが生まれ、それぞれに個性的で魅力的な「日本一!」のいい男たちが、歌舞伎の歴史を積み重ねているのです。

【ぬ】ぬすっとの大スター
 江戸時代に活躍(?)した怪盗の人気ベストスリーをあげるとしたら、次の3人でしょうか。
1. 日本左衛門――歌舞伎「白波五人男」の筆頭、日本駄右衛門のモデルとなった盗賊。美男で知られ、数十人の手下を率いて、大名・豪商相手に派手な窃盗を重ねた。最後は、追い詰められて麻の袴姿で京都町奉行に自首。江戸で獄門に。1747年没、享年30歳。
2. 鬼あざみ清吉――全国各地で窃盗を重ね、その神出鬼没ぶりで人気を博した。伊勢で御用となり、江戸に送られてきたときは、清吉見たさに人々が押し寄せたという。「武蔵野に いろはびこりし鬼あざみ けふの暑さにやがてしほるる」という辞世を詠み、以後、「鬼あざみ清吉」と呼ばれた。1805年没、年齢不詳。
3. 鼠小僧次郎吉――御三家、御三卿をはじめとして、名だたる武家の屋敷のみをねらったことから「奪った金を貧しい家に投げ入れた」などの伝説が生まれ、義賊にまつり上げられた。盗みに入った武家屋敷は120邸、150回以上にのぼり、盗んだ金額は4000両とも、それ以上ともいわれている。松平宮内少輔宅で御用となり、獄門に。1832年没、38歳。両国の回向院に墓がある。

【ね】年々変わるカレンダー(旧暦の話)
 現在使われている太陽暦は、明治5年(1872)12月3日を明治6年1月1日と定めたことに始まります。つまり、明治5年12月は、たった2日しかありません。では、それ以前のカレンダーはというと、太陽太陰暦を使っていました。現在私たちが「旧暦」と呼んでいるものです。江戸時代の人々の暮らしを考えるとき、この旧暦を知らないと話が通じないことが多いので、要点だけご説明しましょう。
1. 旧暦と現在使われている暦では1~2ヵ月のズレがあり、毎年変わる。
(例:旧暦の3月3日の雛祭りは、2003年は4月4日、2004年は4月21日)
2. 旧暦の1ヵ月は、29日か30日。
(例:1月31日はない)
3. 旧暦の毎月1日は、新月となる瞬間を含んだ日で、毎月15日はほぼ満月。
(補足:16日が満月になる月が多い)
4. 旧暦の一般的な1年は354日。太陽の運行(1年=365日)と合わせるために19年に7回、うるう月を設け、1年を13カ月とした。
(例:1月、2月、うるう2月、3月、4月……)
5. 旧暦では1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬。
(例:1月は初春、2月は中春、3月は晩春。「中秋」の名月は8月の満月)

【の】伸び縮みした江戸時間
 江戸時代の時間は、現在の時間とはちょっと違います。かいつまんで、ご紹介しましょう。
1. 節気ごとの日照時間によって、1日を昼と夜に2分割していた。
(冬は昼が約11時間だが、夏は昼が約16時間もある)
2. 昼と夜の時間を各6分割し、そのひと区切りを一時(いっとき)と呼んだ。したがって、季節によって一時の長さが変わった。
(冬は昼の時間が短いので、一時も短い)
3. 一時(いっとき)を十二支に当てはめて呼んだ。
(真夜中0時から一時ごとに、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)
4. 時刻は、真夜中0時を九つと言い、以下八つ、七つ、六つ、五つ、四つ。正午がまた九つで、八つ、七つ、六つ、五つ、四つと数えた。
(昼は明六つから暮六つまで、夜は暮六つから明六つまで)
5. 時刻は鐘の音で知らせた。最初の3つは捨て鐘で、4つ目から数えた。
というわけで、同じ「暮六つの鐘」でも、冬は夕方に(冬至の日なら現在の17時28分頃)に、夏は夜になってから(夏至の日なら現在の19時56分頃)、「9つ」鐘が鳴ったのです。
おわかりになりましたか?

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