第6回 向島
向島散歩、こんなプランはどうでしょう。行きは、川の1本東側の通りを北上。由緒あるお寺が次々に現れて、隅田川七福神のご利益にもあずかれるこの道沿いには、向島の料亭も軒を連ねます。長命寺から先は少し殺風景な道になりますが、百花園に到着すれば、くたびれた足も、疲れた心もリフレッシュするはず。帰りは”桜の名所・墨堤(ぼくてい)”をゆっくり歩いて戻りましょう。8代将軍吉宗がこの地に100本の山桜を植えて以来の桜道。江戸の風趣が香る散歩道です。
■牛島神社(うしじまじんじゃ)
江戸時代には水戸徳川家の下屋敷の一部だった「隅田公園」の北端に建つ古社。平安初期の貞観2年(860年)の創建と伝えられ、もとは現在の弘福寺のそばにありましたが、関東大震災後の昭和7年、ここに移転しました。社の名はこのあたりがその昔、牛嶋の名前で呼ばれていて、この社が総鎮守だったことから。『江戸名所図会』には「牛御前(うしごぜん)王子権現社」の名で記されています。
ここに参拝する人が必ず立ち寄るのが、青銅製の「撫牛(なでうし)」。文政8年(1824年)の作だそうで、体の具合が悪いとき、牛の同じ部分をなでると病気が治るとか。
しっかり牛の頭をなでてきました。
ここに参拝する人が必ず立ち寄るのが、青銅製の「撫牛(なでうし)」。文政8年(1824年)の作だそうで、体の具合が悪いとき、牛の同じ部分をなでると病気が治るとか。
しっかり牛の頭をなでてきました。
■三囲神社(みめぐりじんじゃ)
隅田川七福神の「大黒さま」と「恵比寿さま」を祀っています。弘法大師の創建と伝えられ、文和年間(1352~1356)、三井寺の僧が訪れたときに神像が出土し、そこにあらわれた白狐が神像の周りを三度まわったことから、この名前がつけられたと伝えられています。でも、ここの圧巻は、境内のそこここにある石碑。形も大きさもさまざまに、50余り。
それぞれに由緒がありますが、なかでも有名なのは芭蕉の高弟・宝井其角の「雨乞の碑」です。雨乞いをしている農民たちを見て読んだ句で「遊ふた地(夕立)や 田を見めぐりの神ならば」。ちなみに、この雨乞いのおかげで、本当に雨が降ったというオチもついているそうですよ。
それぞれに由緒がありますが、なかでも有名なのは芭蕉の高弟・宝井其角の「雨乞の碑」です。雨乞いをしている農民たちを見て読んだ句で「遊ふた地(夕立)や 田を見めぐりの神ならば」。ちなみに、この雨乞いのおかげで、本当に雨が降ったというオチもついているそうですよ。
■弘福寺
黄檗宗の寺で、隠元禅師の弟子である鉄牛(てつぎゅう)禅師が延宝元年(1673)に開いた禅宗のお寺。簡素ですが、中国風の造りの山門や本堂が、ひときわ目を引きます。正式な名は、牛頭山弘福禅寺。
境内に入ってすぐに隅田川七福神の「布袋さま」が祀られていますが、参拝の人々はその隣の小さな石像にも手を合わせます。ここが、通称「咳の爺婆(せきのじじばば)」。咳止めや風邪にご利益があるんだそうですよ。勝海舟が、このお寺に座禅に通ったというエピソードもある名刹です。
境内に入ってすぐに隅田川七福神の「布袋さま」が祀られていますが、参拝の人々はその隣の小さな石像にも手を合わせます。ここが、通称「咳の爺婆(せきのじじばば)」。咳止めや風邪にご利益があるんだそうですよ。勝海舟が、このお寺に座禅に通ったというエピソードもある名刹です。
■長命寺
隅田川七福神の「弁天さま」を祀っているお寺。創建時期などはよくわかっていないのですが、現在の寺の名が誕生したエピソードが伝えられています。
ときは寛永年間(1624~1644)、三代将軍家光が鷹狩りの途中で腹痛をおこし、この寺に運びこまれました。そして、境内の井戸の水を飲んだところ、たちまち回復。かくして家光が、この井戸の水を長命水と命名、お寺の名も改められたとか。
江戸時代には文化人たちが集まり風雅を楽しんだようで、境内には芭蕉の句碑をはじめとする句碑や歌碑、筆塚などがいっぱい。芭蕉の句碑は「いざさらば雪見にころぶ所まで」。芭蕉が熱田神宮に参拝したときに詠んだ句ですが、当時、この寺が雪見で知られていたことから、この地に建てられたようです。
ときは寛永年間(1624~1644)、三代将軍家光が鷹狩りの途中で腹痛をおこし、この寺に運びこまれました。そして、境内の井戸の水を飲んだところ、たちまち回復。かくして家光が、この井戸の水を長命水と命名、お寺の名も改められたとか。
江戸時代には文化人たちが集まり風雅を楽しんだようで、境内には芭蕉の句碑をはじめとする句碑や歌碑、筆塚などがいっぱい。芭蕉の句碑は「いざさらば雪見にころぶ所まで」。芭蕉が熱田神宮に参拝したときに詠んだ句ですが、当時、この寺が雪見で知られていたことから、この地に建てられたようです。
■向島百花園
現代に唯一残る江戸時代の花園で、国の名勝・史跡。
文化文政年間(1804~1830)、骨董商の佐藤鞠塢(さとう・きくう)が梅園として開園した庭でしたが、文人墨客が集ううちに古典に詠われている草花を植え、さらに池や句碑などを配した庭園になっていったそうです。昭和13年に、永久保存のため所有者から東京都に寄付されました。
園内には藤棚や萩のトンネルなどの見どころもありますが、園路のまわりに咲く小さな草花が愛らしく、名札がつけられているので花オンチの人にもおすすめ!「今日見ることができる花」を紹介する掲示板があり、花のある場所がわかりやすく示されていて、感激。都内屈指の”心やさしき庭”という印象でした。
8月下旬には「虫ききの会」、中秋の名月の頃には「月見の会」などの催しも。隅田七福神の「福禄寿さま」も祀られています。なお、隅田七福神は、この先、北へ、白髭神社(寿老人)、多聞寺(毘沙門天)と続いています。
文化文政年間(1804~1830)、骨董商の佐藤鞠塢(さとう・きくう)が梅園として開園した庭でしたが、文人墨客が集ううちに古典に詠われている草花を植え、さらに池や句碑などを配した庭園になっていったそうです。昭和13年に、永久保存のため所有者から東京都に寄付されました。
園内には藤棚や萩のトンネルなどの見どころもありますが、園路のまわりに咲く小さな草花が愛らしく、名札がつけられているので花オンチの人にもおすすめ!「今日見ることができる花」を紹介する掲示板があり、花のある場所がわかりやすく示されていて、感激。都内屈指の”心やさしき庭”という印象でした。
8月下旬には「虫ききの会」、中秋の名月の頃には「月見の会」などの催しも。隅田七福神の「福禄寿さま」も祀られています。なお、隅田七福神は、この先、北へ、白髭神社(寿老人)、多聞寺(毘沙門天)と続いています。
■幸田露伴ゆかりの露伴児童遊園
文豪幸田露伴は慶応3年(1867)に江戸・下谷で生まれた人ですが、作家となってあと腰を落ち着けたのは向島の地でした。
明治30年(1897)に庭付きの家を借り受けて住み、「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と命名。明治41年にはその近くに家を新築。大正13年に小石川に転居するまでの約30年間を向島で過ごし、随筆などにも自宅周辺の様子を描いています。
露伴児童遊園は、この二番目の「蝸牛庵」が戦災で焼失したあと整備された小さな公園。
露伴の『運命』の一節が刻まれた文学碑が建っています。なお、最初の蝸牛庵は、現在、明治村に保存されています。
明治30年(1897)に庭付きの家を借り受けて住み、「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と命名。明治41年にはその近くに家を新築。大正13年に小石川に転居するまでの約30年間を向島で過ごし、随筆などにも自宅周辺の様子を描いています。
露伴児童遊園は、この二番目の「蝸牛庵」が戦災で焼失したあと整備された小さな公園。
露伴の『運命』の一節が刻まれた文学碑が建っています。なお、最初の蝸牛庵は、現在、明治村に保存されています。
【老舗散歩も楽しんでね】
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