<白木屋傳兵衛>中村梅吉さんの「いい話」【第11回:歳時記:2月】
正月が明けると、うちでは店の若い者などと一緒に、大寒が明けるまで寒行(かんぎょう)をした。
寒行を始める時には、まず願い事を立てる。大寒の2週間が一番寒い(東京方言では「さぶい」)ので、私などは大寒ではなく、「小寒までは行います」と心の中で不動さんと約束した。もちろん、大寒の間もできれば続けるのだが、約束を守らず途中で止めるとやらないよりも悪い結果が来ると信じられていたからだ。
寒行の衣装は、上半身は法被(正式には半袖の白衣)で、下帯、白布の腹巻、半股引、早い話が祭り衣装だ。違うのは、鈴を腰につけること。この格好で、夜ごと、提灯を持ち、「懺悔、懺悔、六根清浄(さんげ、さんげ、ろっこんしょうじょう)」と唱えながら深川不動堂へ走り、水ごり場で水を浴び、お不動さんにお参りして帰ってくる。水ごり場では汲み置きの水でなく、多少温かい井戸の水をかぶる。それも自分には少量、後ろの見物人のほうへ余計にぶっかけるのが“要領”だ。
その寒行の、満願の日が立春(2月4日頃)。立春の日、私はお供で成田へ。当時、成田へは両国から蒸気機関車で行った。雪が降り、雪まみれのC62が両国駅で「ため息」をついていた。両国から京橋まで足がなく苦労した。昔は、東京でもよく雪が降った。
2月の最初の午の日は初午(はつうま)。お稲荷さんのお祭りで、ウチの裏の露地奥にも稲荷社があり、子どもは太鼓をたたいたり、菓子をもらったりで楽しみな1日だった。
母の実家が魚河岸の仲買で、叔父が信心厚かったので、盛大な祭りをやっていた。それほど裕福でもないのに、神主に祭文を頼み、近所の子供を集め、手回しの映写機で「ちゃんばら映画」を上映し、菓子を配るので、当日、当家の前は子どもで押すな押すなだ。できる家は社会福祉的なことをする――これが江戸時代からの助け合いの信仰心かもしれない。
先年、民族学者に頼まれて、お稲荷さんの調査をしたが、横町のお稲荷さんも旧住民と同様に移転したり、蒸発したり、統合されたりで路上にはほとんど残っていない。そこで、屋上だ。
その屋上のお稲荷さんの一軒をお守りしているのがウチの町会長のN金拍粉工業で、毎年、日枝神社から神主を呼んで祭文を奏し、参加者にお土産をくれる。大根河岸の十社稲荷(如何にこの社に色々のお稲荷さんが同居しているか)を町会でお祭りしている。
『春』はもうすぐ。我慢、ケチケチしないでストーブを炊こう。